はじめに
ネットを徘徊していたところ、「2001年9月11日」のアメリカ同時多発テロの記事がありました。私は22年前のその日、アメリカにいました。
具体的には、2001年8月下旬~2002年3月下旬までの7か月間、会社からの派遣でアメリカに滞在していました。
滞在目的は、現地の公的機関(商工会議所のようなところ)でインターンシップをすることですが、インターンシップの前には語学学校に通ったり、現地大学(UCバークレー他)の公開講座に参加したりする期間もありました。
【滞在先】
2001年8月27日~10月5日:
バージニア州
10月6日~10月26日:
サンディエゴ(カリフォルニア州)
10月27日~12月7日:
リバーサイド(カリフォルニア州)
12月8日~2002年1月4日:
サンディエゴ(カリフォルニア州)
2002年1月5日~2月1日:
リバーサイド(カリフォルニア州)
2月2日~3月1日:
サンフランシスコ(カリフォルニア州)
3月2日~3月29日:
ガルベストン(テキサス州)
※画像はウィキペディアより。
滞在していた7か月間は全てホームステイしていました。1ステイ先に3週間前後滞在して移動する形でしたので、結構な数のステイ先に滞在しました。ステイ先の家族構成も、子供が沢山いる大家族から、未亡人の1人暮らしまで、いろいろありました。
滞在都市も東海岸(バージニア州)、西海岸(カリフォルニア州)、南部(テキサス州)と、バラエティに富んでいたので、それなりに忙しく移動していた感じです。
9月11日に滞在していたのは、バージニア州の教師夫婦の家で、子供が3人いる5人家族でした。バージニア州はワシントンDCと隣接しています。子供のうちの1人はダレス国際空港に勤務していました。テロが起こった当日は、朝から語学学校に通っていました。
同時多発テロが起こって感じたこと
語学学校のトイレでクラスメイトに、「飛行機が墜落したらしいよ」と言われたのが最初でした。その時は、特に何とも思わなかったのですが、そのあと語学学校の教師から「起こった出来事」を聞かされた時、「それは現実なのだろうか?」と思いました。
渡米してすぐの出来事でしたので、英語力もなく、テレビや新聞を見てもすぐには全貌が理解できなかったと思います。インターネットは使えましたが、ダイヤルアップ回線のため、常に使えるわけではありませんでした。
私のヒアリングが間違っていなければですが、9月11日に、ホストファーザーの母親の友人が、その友人を空港まで送ったが、その人が乗った飛行機がワールドトレードセンターに衝突した飛行機のうちの1機だったとのことでした。
ステイ先と同じバージニア州にある「ペンタゴン」(アメリカ国防総省)にも、ハイジャックされたうちの1機が墜落しました。
もともと「9月13日」にワシントンDCの「FRB」(当時の議長は、パウエル議長の3人前のアラン・グリーンスパン氏)を見学する予定だったのですが、もちろんキャンセルになりました。現在に至るまで、FRBには訪問できていません。
同時多発テロが起こったときに米国にいたことは、表現が適切か分かりませんが、貴重な体験だったことは確かです。
事件後は、星条旗が街にあふれました。ホームステイしていた家も含め、あらゆる家の玄関先には星条旗が掲げられるようになりました。
「同時多発テロ」という攻撃を受けたことで、アメリカ国民が一つに団結していく様子が、肌で感じられました。テレビでは団結を呼びかけるブッシュ大統領の演説が連日放送され、「United We Stand」(団結して我々は立ち向かう)という言葉を街中の看板や、あらゆるもの(Tシャツやマグカップ等)で目にするようになりました。愛国心(patriotism)を鼓舞する雰囲気に米国中が包まれていたのではないでしょうか?
連日テレビはこのニュースしかやっておらず、語学学校でのディスカッションテーマも、テロや宗教の話が中心になりました。
テロが発生したことで、当時アメリカに滞在していた外国人を見る目が厳しくなった面はあると思います。日本人であることの居心地の悪さを感じることもありました。特にその後の空港のセキュリティチェックでは、アメリカ人よりも明らかに厳しかったのを思えています。靴の中や、ペットボトルの中身がチェックされるのはもちろん、ノートパソコンは電源を入れてみせるように指示されました。
私はテロの発生によって、会社から「すぐに帰国せよ」との命令が出ることを懸念していました。せっかく7か月間、会社のお金でアメリカに滞在できる機会が得られたのに、行ったばかりで帰国するのは、非常に残念です。しかし、最終的には「予定通り続行するように」とのことで、7か月間の日程をトラブルや事故なく終えることができました。
おわりに
周りに日本人が沢山いたのは最初の1か月くらいで、日本人は私のみという状態のことも少なくなかったです。
ホームステイ先にもよりますが、ホストファミリーも、毎晩のように近所の友人を集めて食事会をセットしてくれたり、休日にカーレースやカジノ、ボウリング等に連れて行ってもらったりと、私が英語に触れる機会を増やす配慮をしてくれ、とても感謝しています。
通っていた学校の生徒がヨーロッパ人が多く、中でもスイス人の銀行員(UBS)の方とは、かなり仲良くなり、授業後に食事をしたり、でかけたりしました。当時お会いした日本人の中には、いまだに年賀状のやり取りがある人もいます。
3連休以上あれば、必ずどこかしらに旅行していました。テロから5か月後の2月に、ニューヨークの「グラウンドゼロ」(ワールドトレードセンター跡地)にも一人で行きました。当時はサンフランシスコに滞在していたのですが、帰国前にどうしても現場に行ってみたいと思い、アメリカ大陸を横断する飛行機を予約しました。私が行ったときはまだ瓦礫の山の中を建機が動き回っている状態でした。グラウンドゼロの近くに教会があるのですが、教会の壁一面に、行方不明者の写真が貼ってあり、とても悲しい気持ちになったのを覚えています。
その他、クラスメイトのブラジル人、ネパール人と私の3人で、レンタカーを借りてロサンゼルスに旅行(3泊4日)したこともあります。ネパール人はヒンドゥー教徒で、マック等での食事の際にも、ビーフではなくチキンのメニューを頼んでいたのが印象的でした。
インターンシップでは、大学発ベンチャー(大学の特許等を活用しての起業)の状況を伺うべく、テキサス大学医学部の教授や、役所担当者、民間企業担当者等にインタビューさせていただいたり、インターンシップ先が主催していた会議(地元の港の活性化策を議論している会議等)に参加させていただいたり、ロータリークラブに参加したりしました。
今となっては、「よくそんなことできたな」と、我ながらびっくりです。コミュ障の私ですが、アメリカでは意識して積極的に行動していました。アメリカでは「リア充」だったといってよいと思います。一人でいるのは寝る時くらいで、それ以外の時間は常に誰かと接するようにしていました。今は英語を使う機会も全くないので、英語力はかなり落ちていると思いますし、すっかり「非リア」になってしまいました。
なんだか夢を見ていたような期間でしたが、この7か月はとにかく楽しかった記憶しかありません。貴重な経験をさせてもらった勤務先には感謝しています。
今年も「9月11日」を迎え、当時の日記を見ながら、久しぶりに当時のことを思い出しましたので、記事にしてみました。
※2023年9月12日追記
インターネットでいろいろ調べて分かったのですが、「United We Stand」という標語は、もともとイソップ童話に出てきた「United we stand, divided we fall」(団結すれば我々は立ち、分裂すれば倒れる)という言葉が起源のようです。
アメリカでは独立戦争や第二次世界大戦の際にも、人々に団結を呼びかけるため、この言葉がよく使われていたようです。
↓第二次世界大戦中のポスター(画像はWikipediaより)